2022年


ーーーー5/3−−−−  三台目のチャランゴ


 
これまでチャランゴを二台所有してきた。一つはチャランゴを始めた時に、先生から買ったもの。もう一つは、胴が割れて使用不能となっていたのを所有者から貰い受け、自分で修理したもの。

 この二台のうち、前者をメインの楽器として使い、後者はそれを使うのがためらわれる場合に使用してきた。どういう場合かと言えば、山の上に担いで行って演奏する時とか、友人宅での宴会に持って行く場合などである。メインの楽器は、それなりの値段がしたものなので、破損の危険性がある場所では使いたくないのである。

 そのように使い分けてきたのだが、いかんせん荒療治を経てきた二番手は、一応使えるとは言っても、制限がある。弦を強く張ると、ブリッジ周辺の響板が持ち上がって弦が高くなり、弾き難くなる。そこで弦を緩め、半音低くチューニングしてある。そこら辺の張り加減が限界だと判断しているのだ。

 まともな二番手を入手したいと常々思ってきた。カミさんに頼んで、ネットの中古品マーケットで探してもらった。良さそうな物が一つ見つかり、二ケ月ほど様子を見ていたら、だんだん値段が下がってきた。狙っている人が他に三人いるようだったので、先を越される心配を感じ、思い切って買うことにした。現物を見ずに、触りもせずに楽器を買い求めるというのは、リスクがある。それを承知で購入手続きをした。出品者が提示していた画像や説明文を見て、良さそうな感触を得ていたからである。

 届いた楽器を見たら、思ったより小さかった。チャランゴは決まったサイズというものが無い。作り手の事情により、多少の大小が生じるのは普通である。そうではあるが、この楽器はこれまでの物と比べて二回りほど小さく、少々意外だった。今となっては確認しようも無いが、出品者の説明書きには寸法の表示が無かったと思う。だが、小さいことを隠していたとも思えない。たまに音を出す程度の使い方だったとあったから、出品者はチャランゴの大きさに関心が薄かったとも考えられる。

 弾いてみた感じは良好だった。少々音が小さかったが、胴体が小さいから仕方ないだろう。代わりにサイズが小さいぶん、構えやすく、演奏し易いように感じた。外へ持ち出して演奏するには、小さい方が持ち運びに便利である。その点では、ちょうど希望に合うものが手に入ったと言える。そこまで考えずに行動を起こしたわけだが、結果的にラッキーだった。





ーーー5/10−−−  けん玉で感じた衰え


 
連休に子供や孫たちが来て一緒に遊んだ。部屋の棚に置いてあったけん玉を見付けて、やり始めた者がいた。それを見て私は、手本を見せてやろうとしゃしゃり出た。特に上手いわけではないが、「もしかめ」くらいならいくらでも続けられる自信があった。もっともその自信は過去のもので、もう何年もけん玉を手にしていない。

 やってみたら、全く具合が悪かった。「もしかめ」どころか、最初の皿にすら玉が乗らなかった。そのうち調子が出るだろうと、しばらく試みたが、いっこうに改善されない。手元が不安定で、出来る気がしなかった。そのうちに諦めて止めた。

 こんなにも明瞭に衰えるものかと、しばし愕然とした。物忘れや勘違いなどは日常茶飯事で、頭の衰えは日々感じている。力仕事をすれば、筋力の衰えも明らかだ。つまり心身ともに加齢による衰えが進行していることは、十分に認識している。しかし今回のけん玉のように、以前できていた事ができなくなったと、具体的事例で感じることは、そうしばしば機会があることではない。だからショックだった。

 小学校の運動会で、父兄が徒競走をすると、足がもつれて転倒するお父さんが続出する。走るという動作が、頭では覚えていても、足が脳からの指令に対応できず、コントロールを失うのである。小学生のお父さんと言えば30代であろうが、その年齢でも普段やってないことをやれば、昔どおりには行かないのである。

 けん玉ならできなくても問題は無い。これが危険を伴う行為だったら、後悔先に立たずということになる。そういう行為はもうしないことに決めるか、どうしてもしたければ、予行演習を繰り返して、過去の自分とのギャップを認識することが必要である。

 たとえば登山である。昔は日帰りで登った山が、現在の自分ではどうだろうか。試しに手頃な低山に登って、体の調子を見る。体力の衰えを感じたら、トレーニングを重ねてパワーアップを計る。それでも確信が持てなかったら、日程を一泊に切り替える。その決断は大きな寂しさを伴う物となるだろうが、どうしても山に登りたければ、その寂しさを乗り越えるしかない。

 こんなことがあった。学生時代に山岳部で山に登っていた男が二人、中年になって槍ヶ岳の北鎌尾根を登ろうと思い付いた。一人は卒業後も登山を続けていたが、もう一人は山から遠ざかっていた。事前にその話を耳にしたとき、私は「大丈夫かいな?」と思った。後から聞いたところでは、体力の限界が意外に早く訪れて、北鎌尾根の取り付きまでも達することができず、引き返したそうである。やはり昔取った杵柄は、当てにならないのである。それでもこの事例、危険地帯に立ち入ってから動けなくなるよりは、ましだっとは思うが。

 



ーーー5/17−−−  懐かしのペミカン


 
雪山登山を取材した番組を観ていたら、テントの中でペミカンを用いて食事を作っていた。ペミカンとは懐かしい言葉である。もう何十年も聞いたことが無い。

 ペミカンは、厳冬期の登山に使う保存食料である。市販されている商品ではなく、登山者が自分で作る。私が初めてペミカンを知ったのは、大学山岳部に所属した一年生の冬、最初の冬山登山のときであった。作り方を先輩から教わり、家で作ってこいと言われた。作り方は、ひき肉とコマ切れにした野菜を混ぜてラードで炒め、冷めたら一回に使うぶんずつ分けてビニール袋に入れて密閉し、冷凍庫で凍らせる。それだけのことだが、数日間に渡る山行の、パーティー全員分となるとけっこうな量になる。母親に手伝ってもらいながら、苦労して作ったことを思い出す。

 登山のザックに入れたペミカンは、厳寒の山の中では固まったままである。テントの中で食事を作る際は、それをビニール袋から出して、鍋に沸かした熱湯に入れて融かす。すると肉と野菜のスープ状になる。水加減は、用途に応じて調整する。用途は、カレーやシチューである。小さい塊を直接ラーメンや雑煮に入れる手もある。

 厳冬期の山に生の野菜を持って行けば、凍ってしまって調理できない。だからこのペミカン、あらかじめ野菜を切って油で炒め、水分を抜き、さらに油で固めて凍結を防ぐというのがキモである。そうしておけば、テントの中での調理の手間も省ける。捨てる部分は無いから、軽量化にも役立つ。

 ビニール袋に入ったペミカンは、白いラードの塊に野菜や肉が見え隠れするといった有様だった。それだけラードの量が多いのである。こんなにラードが多くては、油くどくて食べにくいし、消化も良くないのではないかと、手伝ってくれた母親は言った。私もそのような不安を抱いたが、実際に山の上で食べたら、問題は無かった。寒い山の上では、油くどいくらいがちょうど良いのかも知れない。カロリーが高いし、体も温まるように感じた。

 大学を出てからは、山中に泊りを重ねる本格的な冬山には登っていない。ペミカンは、遠い過去の記憶の中に保存されたままになっていたのである。




ーーー5/24−−−  マイナンバーカードで印鑑証明


  印鑑証明(印鑑登録証明書)が必要になったので、安曇野市役所の穂高支所へ出掛けようとした。印鑑登録の証となる安曇野市民カード(印鑑登録証)を持参して窓口に提示し、印鑑証明を受け取るのがこれまでのやり方だった。その申請・交付手続きは、別に難しいものではない。ただ、穂高支所はいささか遠方にある。

 滞在中の次女が、「マイナンバーカードを使えばコンビニでも取れるはずよ」、と言った。マイナンバーカードを使ってコンビニで住民票を取れることは、やった試しは無いが、聞いたことはあった。しかし、印鑑証明となると、?マークである。私などにとっては、お役所から発行される証明書はいずれも馴染みが薄く、申請するにも襟を正す思いがある。住民票ならいざしらず、名称からして重要書類のニュアンスが感じられる印鑑証明が、コンビニで取れるとは、考えもしなかった。

 ネットで調べたら、一番近いコンビニで印鑑証明が取れることが分かった。早速店へ行ってみた。コピー機につながったタッチパネルで、利用する機能を選ぶ。これまでは「コピー」のボタンしか押したことが無かったが、そのそばに「行政サービス」と書かれたボタンがあった。それを押して、後は画面の指示に従う。マイナンバーカードを所定の位置に置くことを求められたが、その場所が分からない。タッチパネルに置いたり、コピー機のガラス面に置いたり、傍から見れば笑ってしまうようなことを繰り返した。店員に聞こうかと思い始めた頃、タッチパネルから少し右下のところに、カードを置くスペースが設けられていることに気が付いた。

 後はすんなりと運び、最後にコピー機から印鑑証明がスルッと出て来た。見たら、役場で貰う物と全く同じの、カラー刷りの物だった。それは当然のことであろうが、実際に手にすると、いささか感銘を受けた。

 マイナンバーカードがあれば、居住地以外の場所でも住民票や印鑑証明が取れる。その便利さを体験して、マイナンバーカードに対する気持ちが少し変わった。これまでは、国民を管理する目的の、薄気味悪いシステムという印象を持っていたのである。では何故カードを作ったかと言えば、「ポイントが貰えるから一緒に作りましょう」とカミさんに誘われたから。そんな動機で作ったから、そもそも気が入っていない。スマホの自撮りで撮った顔写真は、ひどく人相が悪いものだったが、それを「わざと」とも言いたげに平気で使った。今となっては少々悔やまれる。




ーーー5/31−−−  悩ましいキーボード


 
長年に渡り、パソコンを買い替えても使い回してきたキーボード。それがついに不調に陥り、もはやこれまでとなったのが昨年夏のこと。新しいものを購入するために、市内の家電量販店へ出掛けた。

 キーボードの売り場へ着いてみると、いろいろな機種が並んでいたが、いずれも思いの外安価だった。それらの中から、聞いたことがあるメーカーの、ワイヤレス方式のものを選んだ。価格は、その場にあった中くらいの値段であった。けっして安物を選んで買ったわけではない。

 自宅へ戻り、早速使ってみた。ワイヤレス方式は、キーボードとパソコン本体をつなぐケーブルが無い。これは良かった。机の上に配線があると、なにかとわずらわしいものであるが、それが無い。また、何かの作業で机の上を広く使いたい場合などに、キーボードをササッと別の場所へ移動できるのも有難い。それやこれやの、取り回しの良さが、気に入った。ところが直後、その好感度など消し飛んでしまうようなトラブルが発生した。

 新しいキーボードを使って文字を入力してみたら、ミスタッチが多いのである。なんだそんなことか、と言われるかも知れない。自分が注意をしてキーを叩けば良いことではないか、とも言われそうである。しかし、キーボードを替えた途端にミスタッチが激増するというのは、ただ事では無い。それでも、道具を替えればしばらくは使い難いのが当然、そのうちに慣れるだろうと思った。ところが、1ヶ月経っても2ヶ月経っても、半年経っても慣れない。間違いだらけなのである。この文章も、えらい苦労をしながら打っている。

 原因は何だろうと考えた。一つはっきりとしていることは、これまでのキーボードは白地のキーに黒文字だった。今回のは逆に、黒地に白文字である。この違いがミスタッチを招いているのではないか? 他に大きな違いは、両者の間に見い出せない。キーの沈み具合など、細かい所では違いがあるかも知れないけれど、そんなことが原因でキーを頻繁に押し間違えるとは思えない。

 地と文字のコントラストが逆なだけで、これほど明瞭なトラブルが生じるのだろうか? その因果関係は、私などに分かるはずも無く、学者の研究に委ねるしかない。ところで、昔のピアノは(モーツアルトの頃は)、白鍵と黒鍵が逆だったと聞いたことがある。それが現在の形に入れ替わった時期に、弾き間違える演奏家が続出したのではないかと空想した。 

 ともあれ、とんでもない代物を買ってしまったものだと後悔した。悪魔のようなキーボードである。大袈裟な、と思われるかも知れないが、続けざまに発生するミスタッチを、いちいち修正しながら入力するもどかしさと不快感。それが突然降ってわいたように訪れ、しかも何ヶ月も持続したら、誰しもこのような心境になるのではあるまいか。

 それとも、時間が経っても慣れないのは、脳の衰えによるものなのか・・・